付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 7 おはりに

おはりに我が薩摩の先達が、青少年の頃、朝・昼・晩、時・所をかまわず蛮声を張り上げ、男の気概を誇ったであろう、薩州兵児(へこ)歌を紹介しておこう。

「おどま薩州薩摩のぶにせ、色は黒くて横ばいのこじっくい、肩を怒らかせて下駄ん歯を鳴らせ大道狭しと闊歩する、今じゃこげんして唐芋どん食っちょっどんやがちゃ、天下を股ばいにひっぱすん、この手で政治を取ってやる、取ってやる」

現代語に訳すとこんな事だろうか。

「俺は薩州薩摩の不細工な男だ、色は黒くて肩幅ばかりは広いが身長は低い、寸足らずだ。 歩くときには、肩をいからせて下駄の歯音を鳴らし、大道狭しと闊歩する。 今でこそ、こうして米は無く、薩摩芋などを食べるような貧乏をしているが、やがては天下を股ぐらに挟み、 大政治家になってやる、なってやる」

人の生命は地球よりも重い、この名言をはいて「超法規的措置」を採ったのは、淀号乗っ取り事件の時であっただろうか。それ以降、困った現象が起きてきた、何を勘違いしたのだろうか、自分の生命を地球よりも重く、他人の生命は小鳥の羽よりも軽んずる風潮が出来てきたようだ。

世間では憲法問題や、法的解釈のと、知たり顔でのたまう所謂「知的人種」がおられるが、日本が法治国家であることを放棄した瞬間である事に、気づいていらっしゃるのだろうか。敷衍するならば、その瞬間から、法に基づいて審議する、国会は勿論地方議会すらも存在理由は無くなったのである。

何故ならば、為政者たちに都合の悪い事が発生した時には、国、地方に限らず、即座に「超法規的措置」を採ればよいのであるから。国内外の、物事の見える人達に対し、本当に恥ずかしい日本の現実を、しかもリアルタイムで一斉に情報発信したものだと、今でも日本を心から憂える人間の一人として、あの措置決定の瞬間を、思い出す度に卑屈な思いになる。

面倒な事は避けて通る、先送りする、責任を取らない、目先の利益はとことん追求する。今日の社会の原点とはおおよそ、こんな所だろうか。何故こんな形而下的な心の持ち主が、跋扈する祖国になってしまったのだろうか、そして多くの人々が拝金主義者になってしまったのだろうか。

日本から誇りと恥が去勢させられたからである。誇りを失えば恥の概念も失う。昔は叱られる時は「恥ずかしくないのか」この一語ほど応える事はなかったものであり、武士たるものは腹さえも切ったと言う。日本の文化の原点は「誇りの文化」であり「恥の文化」だと私は思っている。

誇りがあれば恥ずかしい事は出来ないし、そこには自ずと品格さえも備わって来るのである。その事は個人であれ、法人であれ、ましてや国家であっても然りである。大東亜戦争敗戦までは、とても大事にされて来た日本人の魂と精神であったが、戦後の占領政策として有形無形、かつ巧妙に遂行されて来たものがその去勢であったと思う。中華人民共和国のある高官は、公式発言で「日本、そんなものは30年もすれば消えて無くなる」と言ったそうだが、現状を見るに30年も持つだろうか。

パンとサーカス政策が、ものも見事に成功し、平和ボケに酔い痴れている悲しい祖国日本の現状に切歯扼腕している自分であるが、政治的には一介の素浪人の身である。自分に出来る事は、せいぜい筆を取ること位しかないと言う思いで、ここまで書き進めてきた。

鹿児島の青少年に誇りを取り戻して欲しい、恥を知る人間に成長して欲しい、気高く壮大な夢を持ちその実現のために行動する人になって欲しい、利他に生きる人間になって欲しい。そして薩州兵児歌の世界ではないが、たとえお金は無くとも、歩く時には、肩を怒らかせて、下駄ん歯を鳴らせ、大道狭しと闊歩して欲しいのであり、さらに、お天道様に向かって胸をはり、水平線よりも上を見ながら歩く人間になって欲しいのである。

そんな願いを込めながら、稿を起こし始めて早4ヶ月、ようやく筆を置く時がきつつある。恥じ入らんばかりの内容である。しかし、書くと言う事はそれなりに苦労がある、県内は勿論遠く四国の友人たちにまで世話になった。

総ての方々に心から感謝申し上げ「鹿児島の青少年に誇りと夢を」の終はりとしたい、ありがとうございました。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 6 私の県議会処女質問より「ザビエル書簡」

鹿児島の青少年たちに夢と誇りを持たせる願いを込めて、原稿作りをはじめて早4ヶ月目にはいり、最後の稿を迎えた。私は昭和58年4月に、34歳で県議会に初当選さして頂き、その時は鹿児島県議会最年少議員だったので、最初の質問は議会内外からどんな評価を受けるのか注目されていると勝手に意識していたので、かなり原稿作りには気を使った。いろいろな方々の知恵とお力を頂き完成し、昭和58年12月議会で処女質問したがその原文が、議事録として県議会事務局に保存されているので以下一部を抜粋、加筆訂正してご紹介し、私の稿の最終回としたい。
 

「上原一治君登壇」(拍手)

〇上原一治君 天文18年、西暦1549年8月15日、ポルトガルのジョアン3世の要請を受け、日本に初めてカトリック教を伝えたフランシスコ・ザビエルが、我が郷土薩摩の国に上陸した事は周知の事実であります。薩摩に滞在する事約2ヶ月半後の天文18年11月5日、彼はゴアの友人宛に長文の手紙を書き送っておりますが、この書簡こそ後世における聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄そのものであります。その内容のうち肝要な部分だけを抜粋しご紹介いたしますと、次のとおりであります。

この国民は、わたしが遭遇した国民の中では一番傑出している。日本人より優れている者を見たことがない。日本人は総体的に良い素質を有し、悪意が無く、交わってすこぶる感じが良い。彼らの名誉心は特別に強烈であり、彼らにとって名誉が全てである。日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。

 彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしない。日本人の生活には節度がある。ただ飲むことに於いて、いくらか過ぎる国民である。博打は大いなる不名誉と考えているから一切しない。何故かと言えば、博打は自分の物でない物を望み、次には盗人になる危険があるからである。住民の大部分は読むことも書くこともできる。窃盗は極めて希である。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる。大変心の善い国民であり、交わり且つ学ぶことを好む。 

 私は今日まで旅した国に於いてそれがキリスト教徒たると異教徒たるとを問わず、盗みに就いてこんなに信用すべき国民を見たことが無い。大部分の日本人は、昔の人を尊敬している。彼らは、皆、理性的な話を喜んで聞く。

                     ~~(引用終わり)~

            
 ザビエル書簡抄は私の愛読書の中の一つでありますが、私はこの書簡抄を繰り返し読むたびに、今から約400年前の日本人の素晴らしさに心を打たれずにいられません。そしてさらに、私が感動いたしましたのは、ザビエルは日本に上陸した8月15日から手紙を差し出した11月5日までの約2ヵ月半、当時の薩摩の国から一歩も外に出る事なく、薩摩の人々と交わり、薩摩の人々の生活を見聞し、そしてその薩摩の人々の印象をゴアの友人に書き送っていると言う事実であります。つまり、彼の書簡に出てくる、優秀で名誉心が高く、節度があり、教養のある日本人とは、われわれ鹿児島県民の400年前の県民性そのものであります。私はこの書簡抄に出会い、鹿児島県民であることに大きな誇りを抱くようになりました。

ところで、その後世界に誇れる我が薩摩の国は、キラ星のごとく多くの人材を輩出し、日本の白人からの侵略を救い、明治維新への大きな力となると共に、新しき日本国の基礎作りにも極めて大きな役割を果たしました。そしてそれを支えたのは薩摩の教育基本法といわれる郷中教育にあり、この負けるな、悪口を言うな、嘘を言うな、に象徴される郷中教育を通じ、維新の原動力となった優秀で名誉心が高く、節度があり、教養のある理性的な薩摩人が作り上げられていきました。

しかし、最近本県におきましても、校内暴力など青少年の問題行動等が増加傾向にあり、ザビエル書簡抄にうたわれた鹿児島県民性のすばらしさを知る人間の一人として、大変さびしく思っているところであります。又交通事故も戦後最高に達し、県警本部長自ら夜半街頭に立たれるという極めて憂うるべき事態になっております。私はその対策としては、物的環境整備もさることながら、むしろ書簡抄に見られるような道徳性の高い人間づくりこそが最も肝要と思っておりますし、このことは薩摩の歴史を見ても明らかであります。

そこで私は、現在行われているもろもろの県民運動をもう一度見直し、複雑な窓口を一本化した上で整備統合し、知事を中心とした一大県民運動を展開することにより、鹿児島に生まれ、鹿児島に育った事に対し誇りと自信を持ち、日本中、いや世界中どこへ行っても肩を怒らかせて、下駄の歯を鳴らし、大道の真ん中を闊歩できる、400年前のあのザビエルの時代に優るとも劣らない鹿児島の県民性取り戻して頂きたいと声を高らかに叫びたい、そんな気持ちでいっぱいであります。

そしてそのザビエルの時代に返れた時、私たち180万県民は薩摩よみがえりと快哉を叫ぶ事が出来ると思いますが、賢明なる鎌田知事の御所見をお尋ねいたしたいと存じます。


            おはり

               「参考」薩英戦争の戦後処理のため薩摩に訪れた英国人たちが
               郷中教育に感動し、帰国後始めた運動がボウイスカウトである。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 5 日本初の第九交響曲

有難い事に大学時代を東京で過ごした関係で、私には日本全国に友達が存在してくれる。妻を亡くした直後、真っ先に旅した所は、四国の阿波徳島だった。四国は良い、大歩危小歩危に足を運べば平家の落人伝説の遺構がそのまま残っている。伝説の山、剣山も良い、意を決して頂上まで挑戦すると、さすがに高峰である、夏にも関わらず大変に寒かった感触が五年過ぎた今でも記憶に新しい。

 現在の徳島県鳴門市大麻町坂東は、かつてドイツ将兵の捕虜収容所があった所である。第一次世界大戦で捕虜となった独人達をここに迎えたのである、同じく四国の香川県松山市には、日露戦争に於けるロシア人捕虜収容所が存在した。異郷の地で無念の時を迎えざるを得なかった98名にのぼる人々の墓も祖国に向けて立てられ、大切にされている。戦時捕虜である、内科的病者は当然であるが外科的重症者も数多く存在しただろう、今日と異なり治療の処置も限られていたたであろう、四国の地は人情豊かで気候が日本中でもとっても恵まれている場所の一つであり、回復の為には体力の回復が大切である、夏は暑すぎず、冬は温暖な環境が病と傷口の回復の特効薬であった。大東亜戦争敗戦後における日本軍捕虜に対する大量虐待はソ連によるシベリヤ抑留を例とするまでも無いが抑留者数60数万人にものぼり10人に1人が死亡し、その数は6万数千人にものぼった。イギリス軍による東南アジアにおける日本軍捕虜に対する虐待も陰湿悲惨なものだった。 

日本の同盟国だったタイ国のクワイ河鉄橋のたもとに行くと昭和19年に大日本帝国陸軍により建立された「敵味方供養慰霊碑」が残っている。話を戻そう、日本国の捕虜に対する待遇は土地の知名士以上と形容しても良い位の、日本の国家として諸外国に対する誇りをかけた最恵国待遇を処したのであり、その土地の住民の皆さんもその考え方に呼応して接した。

坂東にある収容所のドイツ人捕虜諸氏たちは、そこでは新聞を発行したり又ボウリングをしたりしてサークル活動も楽しんだ、その一つに交響楽団も出来ていた。まさに日本初である、大正7年(1918年)6月1日には、80人の合唱団の賛助出演を得て、所内でヴェートーヴェンの「第九」を第四楽章まで全曲演奏したという記録が残されている。さらに土地の人に聞いた話であるが、今でもドイツのリューネブルク市と鳴門市は姉妹都市として交流があり、近くの吉野川市にも毎年ドイツの高校生が団体で交歓に来ると言う。

松山における待遇も坂東同様であったが、特筆すべきは、兵たちは収容施設から半径1キロ以内は行動自由、海水浴や芝居見物、道後温泉への入浴等が認められており、将校に至っては市内居住が許可され、遠く祖国ロシアより妻子を招聘した人々も16組に及んだと言う事である。ほかに千葉県習志野の広大な草原にも同様な収容所が設置されていたが、そこでも印刷所が出来絵葉書が刷られ、さらにビールの製造もあり彼らの楽しみとしていたのである。余談ではあるが、習志野捕虜収容所長は西郷寅太郎大佐であり、彼はかの南州、西郷隆盛先生の嫡男でもあったと言う事実も付記しておきたい。

それぞれ明治、大正、昭和と時代こそ違え日本と、ソ連ロシアを含む欧米諸国の敗者に対する扱いと思想を述べて見た。ちなみに戦後、捕虜達の送還が行われたが、坂東にあっては帰国を自らの意思で拒否した残留者が、159名にものぼった。日本を永住の地と選択してくれた人々は、武士の情けに感動した典型的な方々だったのだろうか。 

取材中に知った事であるが偶然にも、以上述べてきた様な内容が「ヴァルトの楽園」を題として本年6月、松平健主演により東映から日独両国に於いて公開されるとの事だった。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 4 利他に生きた薩摩の先達津曲貞助、早子母子の話2

1. 明治12年姶良郡国分村で煙草の製造販売を営んでいた父・伝太郎、母・早子の長男として生まれる

2. 郷里の高等小学校を卒業後、鹿児島市に出て英仏義塾および三州義塾で英語・漢文・数学を学んだ

3. 帰郷し、たばこ合資会社を設立、自ら専務理事となり遠く沖縄の八重山群島あたりまで葉タバコの買い入れに出かけたりする忙しい日々にも拘らず時事、社会、教育問題等についてたびたび新聞に所見を発表したという。さらに夜は政治学・経済学・文学・地理学等を独習し、明け方床につくという生活を続けたらしい(19歳)

4. 会社を鹿児島市に移し、6年後には大蔵省指定のたばこ元売りさばき人となり、同市一円と鹿児島郡一帯の、たばこ販売権を一手に収めた(23歳)

5. この間も夜は学習に励み、かねては実業に従事しながら試験の時だけ大学に出かけて受験し、東京の日本大学法律学科と京都にある立命館大学経済学科を同時に卒業する離れ業をやってのけた(30才)

6. 鹿児島市議会議員に最年少で最高得票して初当選、鹿児島独立新聞を独力で発行、県政や市政、教育問題などについて論陣を張った(33才)

7. 鹿児島市消防組頭(38才)

8. 鹿児島県議会議員に最高点で当選(40才)

9. 大正11年当時銀行というものは、中小商工者や一般庶民には程遠い存在だったらしく、民衆は営業資金や不時の支出に困った時には、高利貸しや質屋の門をたたくしか方法は無く、庶民の窮状救済のため鹿児島信用組合(現在の鹿児島信用金庫)を設立した。資料によると、当時は鹿児島市内に117の質屋があり、一世帯当り年間平均15回もの利用がなされていたという。一口当たりの借り入れ金額は低く、生活費の補助、商品の仕入れ、病気療養などに使われていたと見られる(44才)

10. 教育報国に一身をささげたいとし、大正12年、県立第一高等女学校校長屋代熊太郎を校長に迎え鹿児島高等女学校を設立し開校する。国家社会に有為な人材の養成を目指した(45才)

11. 昭和4年県立第一中学校教頭であった松村吉之助を初代校長に迎え鹿児島中学校等を開設し、共に学問をあいし、国を思い、人間つくりを志す人材の養成を目指ざした。同時に鹿児島高等家政女学校、鹿児島幼稚園も創設(51才)
ここで特筆すべきは設立、開校に当たりそれぞれ県立第一高等女学校校長、県立第一中学校教頭を迎えていると言うことであり、学校起こしにかけた彼の情熱と力を認めたいものである。

12. 昭和7年鹿児島高等商業学校開校、通称、高商・私立の高商としては九州で一番早く開かれた、現在の鹿児島国際大学の母体。

13. 昭和15年九州配電取締役選任(62才)

14. 昭和23年学制改変にあたり鹿児島高等女学校・鹿児島中学校・鹿児島高等家政女学校を統合、「津曲学園高等学校」として発足。のち「鹿児島高等学校」と改称、現在に至る

15. 昭和24年永眠(71才)

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 4 利他に生きた薩摩の先達津曲貞助、早子母子の話1

前述のように私は鹿児島中央高等学校の第2期生である。どんな理由かわからないが学校の敷地内にある東郷平八郎元帥の記念碑の斜め向かい側にある、少し古びてはいたが威厳のある屋敷の門に「津曲」と言う表札があったのを、卒業して何十年もたっても記憶に焼きつき目に残って離れなかった。

私は長男上原太陽のご縁で津曲学園、鹿児島高等学校のPTA会長を平成8年5月から10年5月までの2年間務めさせて頂いたが、当時の鹿児島高校校長は諏訪園勵先生であった。先生が長年鹿児島県教育委員会に席を置いておられた関係上、私は有り難いことに旧知の間柄でもあり親しくお話をさせて頂く機会が多かった。その会話の中の「上原さん、鹿児島高校の生徒はみんな優しいです、それは悲しみを知っているからです」から始まる鹿児島高校創立の逸話に、私は興味を持ち取材を始めたのである。

上村國博教頭先生から頂いた資料に目を通すうちに、この話は美談であり、なんとか私に出来る機会があったら一人でも多くの方々に、特に鹿児島高校生徒は勿論郷土の青少年たちに伝えたいと思い続けていたところ、以心伝心とはこの事であろうか、友であり高城書房の経営者である寺尾政一郎さんから出版の声が掛かったので感謝しながら今、筆を執っている次第である。

鹿児島中央高校の前、住人は鶴丸高校でありその又前は鹿児島県立第一高等女学校だった。毎年春3月、第一高女正門横にある津曲家からは、入学試験の合格発表風景が否応なく目に入ってきた事だろう、発表日の朝合格して飛び跳ねながら喜ぶ子供たちにはそれなりに祝福を送ってあげれば良かったが、運悪く志を果たせなかった娘さんや、その親御さんたちが悲しみの涙を流しながら校門を後にし、帰って行く姿に胸を痛めるやさしい心の持ち主の早子、貞助母子であった。しかし、現実としては大正11年現在402名の志願者に対して166名しか合格出来ないという状況であった。

「悲嘆にくれる、あの娘さんたちをなんとかしたい」と言う、母、早子の願いは鹿児島市議会議員を経て当時は鹿児島市教育委員にも任命されており、鹿児島県議会議員として活躍していた貞助も同じであったので、彼は関係各方面に働きかけたが官には期待出来ないと判断し自らの力でと思い、貞助は本来が実業家であったので、持てる資産の全てを投げ打ってでも未来のある子等のために、私立の高等女学校を新設しようと一大決心をしたのである。建設予定地としては早子の隠居所にと用意してあった原良の田んぼを埋め立てる事にした。そして大正12年4月、苦労の末ようやく開校にこぎつけた。これが「津曲学園鹿児島高等学校」創設の原点なのである。縁とは不思議なものであり現鹿児島高校校長、角園征治先生は第14代鹿児島中央高校校長であられた事も付記しておきたい。

己を捨てて「世の為.人の為」に生きた貞助を育てた母、早子も偉大であったが当の本人も偉かった、せっかくであるから貞助の生き様、経歴等を紹介しておきたい。今日、道徳心は薄れ人としての道を逸脱し、私利私欲、保身に生きる輩が跋扈している情けない国、祖国日本になってしまっているが利他に生きた津曲早子・貞助母子のお話が一服の清涼剤の役割を果たし、焼け跡の土筆が芽吹いてくるように薩摩の先達に続く郷土の青少年が陸続する事を請い願いつつ。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 3 自分らしさと言うこと6

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瀋陽~ハルピン 列車内-6 長春駅にて私達はここで下車である。 皆さん達は、今日は次の停車駅であるハルピンに泊まり、明日は牡丹江に向かう3泊4日の旅行予定だったそうだが校長先生初め、こんなにもたくさんの方々が、わざわざ下りて来て私達を見送って下さった。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 3 自分らしさと言うこと4

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瀋陽~ハルピン 列車内-1 瀋陽発ハルピン行き 特快 軟座車(特急 グリーン車)内 風景。広軌であり日本の新幹線と同じ広さである。硬座車、食堂車、寝台車も繋いでいる、硬座車(普通車)は3プラス2人がけでさすがに雑然としていた。

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瀋陽~ハルピン 列車内-2 牛乳パックである。

大東亜戦争敗戦前後、なだれを打って攻め込んで来るソ連軍兵士に追われた何万、いや何十万人の日本人同胞達が列車であるいは歩いて、この路線を南下し逃げただろうか。飢えと恐怖とに苦しんだ事であろう、そして内地(日本本土)の土を踏むことなく無念の最後を迎えられた人々の数字を想像できるであろうか。

さらに母親に背負われたり、抱かれたりした乳飲み子達で飢えと恐怖の為に、母親のお乳が出なくなり、亡くなった方々の数字を想像できるであろうか。おなかを痛め産んだわが子を置き去りにする人々など今はともあれ、当時の母親達には考えられない事であった、それが何故、あのようにたくさんの残留孤児が出たのであろうか。

お母さん達は我が子を飢え死にさせる事が出来なかったのである。
「次善の策」 を採らざるを得なかったからである。

そんな方々の為にと思い、牛乳パックを列車の窓際に捧げつつ満州鉄道の旅を続けた。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 3 自分らしさと言うこと3

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瀋陽駅-3 私達の乗る列車がホ-ムに入って来た、とにかく長い編成であったので、物好きは今に始まった事ではない、かつての鉄道大好き少年以来であり数えてみると18両つないでいた。

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瀋陽駅-4 ハルピン~瀋陽と書いてある、行く先案内板。

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瀋陽駅-5 電気機関車である。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 3 自分らしさと言うこと1

パリで最も軽蔑される外国人とは、フランス語を極めて流暢に話し、服装から身振り手振りまでフランス人そっくりの人々だという。

鹿児島純心短大の学園祭に遊びに行く機会があった。茶道部の部屋でお茶をご馳走になりながら、鹿児島市の吉野に住んでおられると言う部活の若い女の先生にこの話をすると、「そうです、私の母はお茶とお花の指導をしていますが、その仕事でアメリカにも良く行きます。そこでは和服をきちんと着て一流のホテルに行くとVIP待遇をされるそうです」と答えてくれた。

オランダ人は長崎のオランダ村にリピ―タ―として来ただろうか。東京デズ二―ランドにアメリカ人がわざわざ遊びに来るだろうか。日本を訪れる外国人は京都、奈良に行くはずである。個人も法人も国家も物真似は軽蔑の対象とされる、自分らしさと言うことを大切にしたいものである。

東洋的な黒い瞳と黒髪は神秘的に見え西洋人の憧れと私たちは教えられたものだったが、最近は若い女の子だけでなく男子までも髪の毛を茶色に染めているのが多くなり目立つようになった。そして片仮名英語が多用されて日本語の乱れが甚だしい。民族独自の伝統文化を嫌悪し他国の物真似する日本人の姿を外国人は軽蔑していないだろうか。ちなみに、古代ローマ帝国の血を引く誇り高きフランス人は英語を話せる人すら仏国語しか使わないのである。画一化されたファッションなどの流行を追うよりも、自分に似合う個性的な身だしなみの方がより魅力を引き立てるのではなかろうか。ファッションに限らず何事も自分の頭で考え判断し、物事の真実を見られる人になってほしい。

欧米の見せつけ挑発する文化に対し、日本の文化の真髄は覆い包み隠す恥の文化であり、支配と競争の文化に対し、共存共栄の文化でもある。環境にしても自然を克服し支配する考え方に対し、日本人は古来、八百万の神々とし尊敬の念を持ち崇めてきたのである。人間が万物の霊長などとの思い上がった考え方を改め、人類は他の動植物などを支配するのではなく、共生しながら生きてゆかねばならない。たとえ人類が滅亡しようとも、地球は何事も無かったかのように回り続けるのだから。地球に優しくではなく、人類に優しくが正しいのである。人間は大自然に対しもっと謙虚になるべきだ。

以上述べて来たような哲学、思想を背景に持つ日本の伝統、文化に誇りを持ちたいものである。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 2 日露戦争100年に想う16

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ロシヤ軍 旅順要塞、203高地頂上付近-19 乃木将軍次男戦死の地

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ロシヤ軍 旅順要塞、203高地頂上付近-20 乃木将軍次男戦死の地

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ロシヤ軍 旅順要塞、203高地頂上付近-21 乃木将軍次男戦死の地。ここにも可愛いすみれの花が咲いていたが、心なしかこちらの方が寂しそうだった。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 2 日露戦争100年に想う15

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ロシヤ軍 旅順要塞、203高地頂上付近-16 この陣地から下を見る。

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ロシヤ軍 旅順要塞、203高地頂上付近-17 この陣地からこの石段を4~50m下ったら乃木将軍次男戦死の地があった、上の塹壕から撃たれたのかも。

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ロシヤ軍 旅順要塞、203高地頂上付近-18 乃木将軍次男戦死の地、この案内板は倒れており一時的に修理して撮影させてもらった。下の英語らしき文字は、どこの国の人々が理解できるのだろうか。

付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 2 日露戦争100年に想う9

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ロシヤ軍 旅順要塞、203高地頂上付近-4 ロシア軍の防御及び攻撃用の陣地。銃座である左前方には銃眼も見える、丸い所には機関銃が据えられていたと思われる。(機関銃座)

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ロシヤ軍 旅順要塞、203高地頂上付近-5 ロシア軍の防御及び攻撃用の陣地。黒く四角い銃眼がしっかりと見える。