付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 1 序に変えて

モンゴル出身の、美しい歌を唄う歌姫オユンナのラジオインタビューを昔聞いた記憶がある。質問者の、「モンゴルは世界的な英雄チンギスハンを生んだ素晴らしい国ですね」との問いかけに対し、彼女は「私は自国の歴史と言う勉強を、学校で習わなかったからチンギスハンは知らない」と答えた。もうかれこれ10年ぐらい、あるいはそれ以上前の事だったので私の記憶違いかもしれない。要するにモンゴルの学校教育には民族の歴史教育は無い、と言う事だったようだ。当時の私は自国の英雄さえも知らされないモンゴルの人々は可哀そうと思ったものであるが、今日の日本の教育、風俗、文化を見るに他人事ではない。

事実としては、もっと大変な状況にあるのでは無いかと感じている。何故ならば教えない事よりも、自分たちは悪い事をした人達の血を引く末裔であり劣等な民族だと子供たちに、繰り返し教え、彼らの頭脳に有形無形の形で無意識のうちに刷り込み続け、集団洗脳したとしたらどうだろう、自己嫌悪と言う言葉もある。子供たちは自らと祖国に対し自身と誇りを失い、気高く壮大な、世のため人ため、という利他に生きる勇気と気概は勿論、志の高い夢など持てるはずが無い。

今日の私たちの身の回りを見てみよう、暖衣飽食、セックス、スポーツ、ショー、クイズ、なんの事はない、現代版のパンとサーカスである。古代ローマ帝国では支配者たちは国民の懐柔策として、まず空腹を満たす為にパンの配給をした。満腹になるとしばらくは支配者たちに対する不平不満が鳴り止んだが、満腹し退屈し始めると、国民は再び国家批判を大きく始めた。そこで支配者たちが次に打った手が娯楽の提供であった。サーカスであり、残忍な人と人とは勿論、人と猛獣をも戦わせ国民に娯楽ショウとして提供した格闘技であり、観劇であった。実際にそれ等が興行された施設の一つにコロッセウムが今も残っている。

そして、パンとサーカスに酔い痴れた国民は物事や、国家の本質について考え議論する事から去勢され、ローマは衰亡し滅んだ。国家とは古今東西直接的には、外敵によってとなっているが事実としては内部の腐敗により弱体化した結果、人的にも外敵につけこまれ懐柔される者も出たであろうし、当然ながら武力的にも弱体化し、国を外敵から守りきれなくなり滅んだし滅ぶのである。国は内から滅ぶ。

しかし、似非為政者にとって大切なのは国家、民族よりも自分自身なのであり、保身や出世、お金のため、一言でいうならば利己に生きる輩なのである。そして彼らは、国家社会に目を向け、操作されているかも知れない一方的に流されてくる情報に拠ってではなく、流れ込んでくる洪水のような情報を、自らの知識と頭脳により取捨選択判断し、物事の本質を見抜き、天下国家を語る人、即ち本物の人物が現れてくる事を最も恐れるのである。 したがって彼らは愚民化政策をとるのであるが、その定番は前述のごとくローマの昔からパンとサーカスである。

誇りと夢は表裏一体であり誇りなき者には夢は抱けない。気づいている人には良く見えていると思うが、巧妙な形であるいは学校教育の中で青少年たちの誇りを奪い、夢を持たせない策が講じられている現実に、思いを致さなくても良いのだろうか。それ故に私は、利他に生きた薩摩の先達のりっぱな生き様をとりあげていこうと思うし、鹿児島の自然の美しさと、人情の豊かさを、鹿児島の象徴である桜島に託して書いてみたいとも思う、鹿児島の青少年たちに誇りと夢を持たせたいからである。当然な事でもあるが、健全なる肉体がなければ健全なる精神は宿れない、食の乱れがいかに現代の青少年の心身を蝕んでいるか、そして、その対策にまで言及出来ればとも思っている。

さらには、情報を取捨選択判断し、物事の本質を見抜く力を有するとともに、高潔なる人格を有し、天の意志に添って生きられる人が平成の今現れて欲しい。現実の我が国は、政・財・官・民、何処を見ても情けない国に成り下がってしまっているが、もう一回世界に誇れる道義国家として再建してくれる人が、鹿児島から出て来て欲しいのである。
以上、願いをこめて稿を起こしてゆきたいので御笑覧頂ければ幸甚である。

57、結び

「良い故郷を子供達に渡すために」~日置市版温故知新


ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きに行く

                                 石川啄木

日本列島は交通手段の利便さ、時間の短縮に比例して人的交流も烈しくなり、情報伝達手段の過度の普及とあいまって、世界に先んじて日本国内のグローバル化が急速に進んでいる。この勢いで行くと間もなくその完成をさえも見てしまうのではなかろうかと思われる位である。

  具体的に見るならば、画一的なミニ米国、ミニ東京的光景が地方の中核都市は当然の事、日本の伝統的原風景である農山漁村まで浸蝕してしまっている。 昭和30年代以前の気候、風土、人情、地理的条件に適合したその土地独特の故郷の原風景が消滅寸前ではなかろうか。さらに由々しき現象であるが尊い方言は勿論、地方独特のイントネーションさえも消えつつある。

ひるがえって、私達の足元日置市においても、然りではなかろうか。遠浅で、かつてはたくさんの海亀が上陸し、産卵して賑わっていた江口浜砂丘等は、浜崖はできるし、いたるところで砂丘そのものが消滅し海底の岩肌が剥き出してさえいる。

これは典型的な自然破壊の例であるが、その他にも自然、環境、文化、史跡などお金では買えない住民の尊い財産が破壊、消滅しつつある。

そんな現状を見る時「良い故郷を子供達に渡すため」に心ある大人達が知恵と汗を流す必要はないであろうか。それ故に 私はかつて郷土が輩出した人材やその事跡・文化・史跡などを再発見し、改めて読み物や目で見る資料として作成する必要性を実感しその編纂に取り組む事にした。日置市版の温故知新をやる必要性を強く感じたからである。 

この資料を手に採って下さった方々へのお願いであるが、日置市に現在住んでいる人々には当然の事、この故郷にご縁のある多くの人々に、特に青少年達にこの本の中の話や写真を見せて欲しいのである。そうする事により、青少年たちはこの日置という故郷に生まれ育った事に対し誇りを持つであろうし、先達に負けない生き様を夢見る若者も出現するであろうと思うからである。出来るならば日置市の学校で道徳や歴史、公民などの副読本として採用して欲しいものである。

   おはり

56、鹿児島市 文化センタ- 西郷南州銅像

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西郷南州銅像-1

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西郷南州銅像-2

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西郷南州銅像-3


       人を相手にせず 天を相手にせよ
         天を相手にして 己を尽くして人を咎めず
           我が誠の足らざるを尋ぬべし
 
                     西郷南州先生御遺訓より

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公12

 明治維新の推進者 小松帯刀の功績(小松帯刀の存在)

 京都二本松の小松邸で、大政奉還後の新政府の構想が協議された時、その席には坂本龍馬のほかに、小松、西郷、大久保、陸奥陽之助(土佐)、広沢兵助(長州)、といった顔ぶれが集まった。新政府の構想では、関白と議奏と参議という三つを柱とする骨組みが予定されていたので、西郷の求めに応じて、龍馬がそれぞれの役に、これぞと思う人の名を書き入れた。

(関白)
三条実美   副関白 徳川慶喜

(議奏)
島津久光(薩)、毛利敬親(長)、松平春嶽(越前)、鍋島閑叟(肥前)、蜂須賀茂詔(阿波)、伊達宗城(宇和島)、岩倉具視(公卿)、嵯峨実愛(公卿)、東久世通○(公卿)

(参議)
小松帯刀(薩)、西郷吉之助(薩)、大久保一蔵(薩)、木戸準一郎(桂小五郎・長)、広沢兵助(長)、後藤象二郎(土)、横井平四郎(小楠・肥後)、長岡良之助(肥後)、三岡八郎(由利公正・越前)

小松帯刀が参議の筆頭第一にあげられていることからみても、いかに全国の勤王の志士たちから重くみられていたかが、わかるのである。 彼は大政奉還で起こる混乱を予想し、戦乱必至とみて、薩摩藩の交易と産業技術に取り組み、戦争遂行の軍備と経済力を養い、西洋の科学技術を学ばせるなど、明治維新の基本を培い、さらに先頭に立って大政奉還実現を将軍慶喜にせまっている。帯刀が常に西郷・大久保と三人三脚で事に当り、その中心であったことをよく知っていた坂本龍馬が、参議の筆頭に小松帯刀をあげたのは当然なことである。

 小松帯刀が年齢三十六歳の若さで死んだので、その後の明治新政府が、西郷・大久保・木戸などによって運営せられることになり、この三人が明治維新の三傑と称せられるようになった。明治維新は、幕末の多くの志士たちの手で行われたのであるが、それらの中で、西郷隆盛・大久保利道・坂本龍馬・木戸孝允・岩倉具視・後藤象次郎・中岡慎太郎などの名は著名である。

 ところが、近代日本興隆の基礎を培い、明治維新の参議筆頭にあげられた小松帯刀が、蔭にかくれ、彼の功績を顕彰する伝記も少ない。小松帯刀の伝記によって彼の功績を知る時、帯刀の業績を顕彰し、彼の功労をたたえることは、われわれ日本国民が忘れてならないことであろう。

 現代の日本文化経済の興隆は、封建性の強い幕府を倒し、日本古来の王政に復し、それに西洋の科学文明を導入した明治維新の大改革によるところが多い。 明治維新は、当時の若い志士たちが、命を捧げて、日本を外国の侵略から守り、皇室を中心に、強力な統一国家を、築きあげようとした一大革新であった。

 これらの志士たちの中で、特に西郷・大久保・木戸を維新の三傑と呼んで、広く世に知られているが、この外に坂本龍馬・後藤象次郎その他多くの志士たちが、活躍した。これら天下の志士たちの首領格として、最も傑出した偉人が、日吉町から二人も出ていることは、われらの大いに誇りとするところである。小松帯刀と桂久武の二人である。桂久武については、別掲したが、小松帯刀は、抜群の功績をたてながら、明治維新が緒についたばかりの明治三年に、わずか三十六歳で病死した。そのため帯刀のあとを引継いだ西郷・大久保が、帯刀にかわって、明治新政府の中心的役割を果し、明治の改革をなしとげ、大きな功績をあげ得たのである。

      以上日吉町郷土誌参照

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公11

 小松帯刀の人柄

 小松帯刀は政治手腕もあって、国事に奔走するばかりでなく、友情があり、人柄が温かく、態度が親しみやすい性格であった。前途のイギリスの青年外交官アーネスト・サトウは「小松は私の知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そうした階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」とべたほめにほめている。

 藩主に対しても誠実であったから、信任されて城代家老として藩政をまかせられたのであろう。帯刀が志士におくった手紙を見ても、懇切ていねいで、誠の心がにじみ出ている。帯刀は人から頼りにされ、相談しやすい性格であったのであろう。

 そうして日本の国体を正しく認識して、大義名分に通じ、勤王の志があつかった。なお帯刀が用いた清廉の号でもわかるように、清廉潔白で、何回も加増や賞典禄を辞退している。自己の欲のために奔走しているのではなく、ひたすら世のため、日本を危難から救い、日本民族のために、命を捧げて奔走していて、その上、謙虚で、親切で温かい心の持主であった。このような点で、京都の名妓とうたわれた琴仙子も心から、帯刀をしたい、死後も同じ墓地に葬るよう遺言したのであろう。

 ところが国事に昼夜をわかたず奔走している帯刀が送った妻への書翰は、誠にやさしく、妻をいたわり安否をきづかう心情が、文面にあふれている。元治元年(一八六四)三〇歳の正月、京都から、正月三日便と正月五日付と正月十五日付と、つぎつぎに手紙を妻女の於近(チカ)に送っている。

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公10

△三十五歳(明治二年)(一八六九)

 ○帯刀ら薩藩の新政の改革にあたる

 帯刀は京都で、明治二年の春を迎えた。薩藩では、新政府の方針に基づいて、藩政の改革に着手したが、戊申の役の凱旋軍人達の勢力が強大で、久光・忠義両公の命でも届かず、その処置に窮していた。西郷隆盛も帰藩していたが、日当山温泉にいて、藩政にあずからないので手をつけられず、使者を京都に遣わし、小松・大久保・吉井に帰藩を願った。
正月二十日先ず小松・吉井が帰藩し、大久保は勅使、柳原の副使となって来て、藩政の改革に取り組んだ。

 ○帯刀率先して領地・家格を返上す

 二月五日、小松帯刀は、新政の改革は、先ず土地人民を朝廷に返し、国民平等となることから着手すべきであるとして、他に先んじて、小松家の領地を返還し、家格を返上する旨の二書を奉った。旧藩主忠義公は、山口・佐賀・土佐の各藩主と連署して、封土人民を朝廷に還すことを願い出たが、政府において公議で決裁し、通知があるまで一応調査して差出すようにとのことであった。
 帯刀は鹿児島の原良の小松家別荘にこもり、病気の療養につとめたが、病気はなかなか治らないので、五月十三日付を以て官職を辞したので、五月十五日、これまでの職を免ぜられた。そこで、専念治療にあたることとし、七月五日頃より大阪に上り、大阪医学校教師「ボードウヰン」の治療を受けることになった。

 ○帯刀・禄高千石の辞退

 朝廷よりは、積年の勲功を賞せられ九月二十六日禄千石を下賜された。


△三十六歳(明治三年)(一八七〇)

 前年賞典禄千石と位階を下賜せられ、これを辞退する懇願を奏上申しあげたが、返上のお許しが出なかったので、翌年の正月再び賞典禄奉還書を奉呈して、禄位辞退を願い出したが、聴許なく、そのままとなった。明治三年の五月十六日御前賜饌に招待されたが病気で不参であったので、酒饌を下賜された。

 ○帯刀遺言書をしたためる

 帯刀はその後治療を続けたが、その効があらわれず、自分でも最後を自覚してか、五月二十七日遺言書をしたため、税所長蔵・同篤満の二人を証人として記名させた。
 明治天皇は帯刀の病気が重いと聞し召され、五月二十七日に宮内省より大阪府知事を通じ、肴壱折、菓子壱折を御下賜になった。

 ○帯刀逝去

 七月大政官より病気全快次第、東京に住居すべき命を拝したが、再びたつことかなわずに七月二十日、大阪にて逝去した。享年三十六歳であった。


 幕末に行われた重要な秘密会議のほとんどが、京都二本松の小松帯刀の私邸であった。帯刀が薩藩の城代家老であったということもあろうが、その人柄に負うところが少なくない。無口で和やかな男であったと伝えられる。土佐の乾退助(板垣退助)が、竜馬の仲介で薩摩藩と倒幕の秘密同盟を結んだのも小松帯刀の私邸であった。

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公9

△三十三歳(慶応三年)(一八六七)

 ○帯刀城代家老となる

 小松帯刀は京都にあって正月を迎えた。一月九日皇太子睦仁親王(明治天皇)が即位された。帯刀の諸掛りはそのままで、更に城代家老を命ぜられ高千石を賜わった。
 小松帯刀等は、長崎戸町村の小菅に、修船場の設立を計画した。


△三十四歳(慶応四年)(一八六八)、(明治元年)九月八日改元

 ○鳥羽伏見の戦

 西郷が倒幕軍の総参謀となって軍事に専念する間、大久保は専ら朝廷の中にあって内政を担当

 ○小松帯刀の外交手腕

  外国との外交交渉の難局を、うまく処理できる人は、小松帯刀をおいて他にない。英国など外国との今までの交渉から、帯刀の登場を必要としたのであろう。
 小松帯刀は政治手腕もあったが、友情があってその人柄が温かく態度が親しみやすい性格で外交的な才能にもすぐれていたとみえ、イギリスの青年外交官であったアーネスト・サトウは小松の印象について、その著書「一外交官の見た明治維新」に次のように書いている。「小松は私の知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」と。

 ○フランス艦員斬殺事件

  仏国の海兵が、泉州堺で、近海を測量し、堺に上陸して市街地をうろついたので、それを見た土佐藩士が、怒ってその三人を斬殺、七人を負傷させ内六人が行方不明となる事件が起った。仏国公使は怒って、謝罪して、行方不明の六人を十七日午前八時までに返せと迫った。
 この要求に対し、外国事務官として帯刀は之を京都に通知し、行方不明者をさがさせ、その死骸を発見してこれを仏側に引渡し、賠償金を出し、容堂公自ら仏軍艦に至って謝罪をなす等仏国の要求を容れた。
仏海兵を殺傷した土佐藩士十八人には自刃を命じた。艦長の面前で、切腹斬首が十一人まで進んだが、一人として臆する色もなく、従容として死につく日本の武士達の姿に感動した艦長は、処刑を中止させ、「彼等が刑を受け、罪に服する心、何と潔白なことよ、罪をあがなうに十分である。残りの者は処刑するに及ばない」と申し入れた。
 仏国は幕府の側について、政府や薩摩とは反対で、長州征伐の時も、幕府と共に長州と戦うとまで助言したことさえあった。

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公8

△三十二歳(慶応二年)(一八六六)

 ○帯刀の邸で薩長同盟成る

 薩長同盟について帯刀の同意を得て、長州の木戸・高杉に会談した坂本龍馬は、木戸を伴って、薩藩士と称し京都に入って、帯刀に連絡した。たまたま薩藩家老の桂久武と島津伊勢が藩公代理で、正月の天機伺いの挨拶のため在京中であったので、小松の宿所で、一月十八日に会合し、木戸と薩藩側は小松帯刀、桂久武、島津伊勢、西郷隆盛・大久保利通・吉井友実・奈良原繁等と薩長連合の事を談合した。

 ○帯刀等坂本龍馬を伴って鹿児島に帰る。

 この同盟のことは秘密を必要としたので各自は口外しないことにし、大久保はその報告のため二十一日帰藩し、報告をすませ、二月二十一日京都に帰着したので、京都のことは大久保などに依頼して、帯刀は桂・西郷・吉井らと共に、土佐の坂本龍馬と其の妻お龍さんをつれて、二月二十九日京都を発して、帰国の途につき三月一日、三邦丸にて大阪を出帆した。途中八日長崎に立寄り、十日鹿児島に着いた。そして龍馬は鹿児島原良の小松屋敷に滞在した。

 帯刀は疲労、恢復のため三月十四日より四月八日迄霧島の栄之尾温泉に行き、保養していたが、坂本龍馬も、塩浸温泉で、京都で受けた傷を治療することにした。その間に吉井が訪れたので龍馬とお龍の三人は、栄之尾の小松帯刀を見舞い、三月二十八日より四月一日まで栄之尾に泊り、温泉に浴した。

○帯刀英公使パークスを鹿児島に招く

 パークスが、水師提督海軍中将キングの軍艦三隻を率い鹿児島を訪問し四、五日も滞在した。

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公7

△清廉 三十歳(元治元年)(一八六四)

  禁門の戦い(皇居守護の戦)でも、帯刀は西郷や伊地知・大山などに命じ、直接指揮をとり、遂に長州浪士を追いはらった。帯刀は朝廷と幕府の間に立って、最も重き人物、なくてはならぬ人物となっていたので、島津藩においても同じように帯刀はなくてはならぬ人物となっていたのであった。英艦隊にしても、薩摩を降伏させ、賠償金を出させることは困難であることを知る。

 ○帯刀への感状加俸

 薩藩においてはこのたびの蛤御門の変に、小松帯刀が薩軍を指揮し、長州兵を討ちしりぞけ、その功績が最も顕著であったので、藩公は感状を贈って、その功労を賞した。

 ○帯刀交易を以て財政をはかる

 浜崎太平次(指宿)等の活躍


△三十一歳(慶応元年)(一八六五)

 ○留学生の派遣

 慶応元年になって、帯刀はかねて親密にしている長崎の英国商人グラバーに依頼して、西洋を見学させ、西洋の科学、文明を、学ばせるため、薩摩の青年学生を選抜して、英国に留学生を派遣することとし、新納久修と五代友厚らは、留学生一行を引率して、羽島より出港した。

帯刀は大久保利通や西郷と共に、薩藩の藩論を確立する必要から京都より帰国することにした。四月二十二日帯刀は西郷と、土佐の志士坂本龍馬を伴い京都を発って帰国の途についたが、途中坂本龍馬は長州に上陸し長州の志士に遊説し、五月になって鹿児島に到着し、薩長連合を説いた。中岡慎太郎も来り、木戸孝允との会談をすすめた。帯刀はこのような国内の有様では、早晩混乱に陥るとみて、藩の方針を一定して、陸海軍備の充実を図ることが急務と判断し、帰国するとすぐ五月二日砲術館を設け、兵を訓練して、変に備えることにした。

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公6

△清廉 二十九歳(文久三年)

 ○薩英戦争と攘夷

 文久三年(一八六三)、小松帯刀、大久保利通など、英船が薩摩におしかけるかも知れぬとの藩庁よりの通知で、鹿児島に帰ったあいだに、京都では長州の急激派尊王攘夷党の久坂玄瑞・寺島忠三郎・轟武兵衛などの運動が強まり、朝廷では攘夷派の勢力旺盛で、急に政情が一変した。近衛卿らは久光公の上京を求めたので、久光は四月四日小松帯刀・中山中左衛門外七百余人を率い白鳳丸にて京都に上った。そして攘夷の不可をのべたが、久光の意見をとりあげず、政情が急に元にかえるとも見えない上に、生麦事件に関する英国の要求もあって、急いで帰鹿することに決定し、帯刀を朝廷と幕府につかわし、急に京都を引あげる事由書を届けさせた。

 当時京都にあった慶喜と閣老の板倉、水野等は、帯刀を呼んで「去年秋の生麦の事件について、英国はしきりに賠償金を請求し、加害者の首領を死刑にするよう薩摩に命ずるよう要求している。之について薩藩はどのような意見であるか」とただして、尚幕府は薩摩を威赫して「首領である島津三郎(久光)の首級を要求して来た」とおどした。これに対し帯刀は「この事件は其の原因は薩藩にあるのだから、直接薩藩に談判せられたいと英国に申されるように願いたい。そうすれば、どちらが是か非か、正か邪か、直ちに薩藩にて解決するでしょう」と答えた。

 帯刀は御軍役掛で責任者であったので、帰国するとただちに軍役掛り総がかりで、英国の来襲に備えて戦争の準備に取りかかった。そのため忙しくなったが、常に久光の側近くにいて、政事の中枢にあった。こうして薩摩は戦備をととのえ、万が一の戦争を予想し、配備について待ち構えていた。

 英国政府は軍艦七隻をおくり薩藩の罪に対する談判を迫った。六月二十七日英艦七隻は谷山沖に侵入し、翌日前之浜で談判したが、交渉は難行した。七月二日英艦隊は、重富沖に避けていた薩藩の汽船三隻を奪って焼いたので、帯刀は開戦を決意し、こちらより発砲して、薩英戦争が勃発した。英艦の大砲は威力を発揮し、城下町は火災となって焼失した。英艦も一隻は祗園ノ洲に座礁し、かろうじて逃れ、一隻は旗艦であったにも拘らず、錨を切り捨ててのがれた。沖小島の沖にさしかかった際、薩藩の砲台からの弾丸は、英艦に命中し、船長以下死傷五十余人も出たのにくらべ、薩軍は戦死一、負傷者数名にすぎなかった。勝敗は互角であったが、英艦は逃げ去ったので、薩藩の勝戦として風評は天下に知れ渡った。当時の世界一のイギリス艦隊を追い払ったのである、まさに快挙であった。

 久光は西田町の千眼寺にあって、軍役掛の帯刀はその傍に従い、後に玉里に移り薩摩の全軍を指揮したのである。 尚薩軍の現地の総指揮官は日置島津の久明であって、吉利・日置の両雄が薩英戦争の功労者であったことは、われらの誇りとするところである。此の薩英戦争は、薩摩一藩で、大英帝国の艦隊を打ちしりぞけたのであるから、天下の志士は、幕府頼むにたらずとして、薩摩を中心とする薩長土連合の気運を起す原因となった。又薩藩内の勤皇党と、佐幕党と中間党が、これから藩論を一つにし、勤皇党として国事に尽す気運をつくりあげることになった。

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公5

△清廉 二十八歳(文久二年)

 ○家老見習となる

 文久二年(一八六二)には伊作地頭職となるとともに、従来の勤務の外に、大番頭を命ぜられ、特別な取りはからいによって家老吟味(家老見習い)の役に加えられた。時に年僅か二十八歳の若さであった。この頃久光は江戸へ出府の計画であったので、帯刀を御供に加え、御側用人方の御用を勤めるようにと申しわたされた。

 ○勤王党の首領にあげられる

 小松帯刀は大義名分に通じ、天下国家の時事を論じ、大久保利通や西郷隆盛などと勤皇派に属したが、佐幕派に対抗できる家柄の小松帯刀を中心に押したて、勤皇派の首領としたのである。当時西郷は幕府の追跡をのがれ、僧月照と入水し、そのため死亡したとして、大島にひそんでいた。
 さらに御側役兼務を命ぜられ、江戸、国元において家老同様・御用取扱をなさしめられた。

 ○家老及諸掛りを命ぜらる

 文久二年(一八六二)の十二月二十四日、国元に於いて正式に御側詰兼務にて家老を命じられ、その外に各種の掛りを兼任せしめられ、実にすべての薩藩の政治・軍備・財政・教育・商工の掛・企画実施を双肩にになうことになった。であるから当時、島津の実力者小松帯刀を「島津の小松か、小松の島津か」と天下の志士らがうわさし、帯刀をたよりにしたという。

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公4

 第29代小松帯刀清廉(せいれん)は天保6年(1835)喜入領主肝付兼善の第3子として誕生した。幼名を尚五郎と称し、少年時代より頭脳明晰で学問を好んだが、身体がやや弱い体質であったにも拘らず昼夜よく勉学に努めて一旦寝床についても、目覚めると再び起きて読書に励み、夜通し読書することも多かったと言うが、17歳の頃より多病の身体となったので、母君が心配し勉学を止めさせられ保養を命ぜられたと言う。


△清廉 二十一歳(安政二年)

 ○江戸詰斉彬公の薫陶を受ける

 安政二年(一八五五)二十一歳で奥小姓として御近習番を命ぜられ、五月江戸詰となり、九月江戸より帰着した。僅かの期間であるが、斉彬公の御近習番、奥小姓として、斉彬公の薫陶を受けたものと思われる。 斉彬公が為さんとしたことを、帯刀がなしたので彼は斉彬の遺言をついだものであると言われるのも偶然とは思われない。


△清廉 二十二歳(安政三年)

 ○小松家を継ぐ

 安政三年(一八五六)尚五郎は、小松家の養子となって、小松尚五郎となる。(小松家当主が急逝した為妹チカに婿養子を迎えることになったから)


△清廉 二十四歳(安政五年)

 ○火消隊長、当番頭となる

 安政五年(一八五八)三月朔日、尚五郎は改名して、小松帯刀清廉と称した。この年の七月に藩主斉彬公が急死され、その葬儀が南泉院(今の照国神社の地)で行われたが、当時火消隊長をつとめた帯刀は、火消隊を率いてその警衛にあたった。斉彬公の遺言によって久光の子忠義が藩主をついだが久光は国父として執政となった時、帯刀は当番頭に進み、奏者番を兼務させられ、久光の側近に仕えることになった。

55、鹿児島市 文化センタ-小松帯刀(たてわき)公銅像・小松家と帯刀(たてわき)清廉公3

小松家と帯刀(たてわき)清廉公

平清盛の長男は小松内大臣平重盛である。重盛は人情味溢れ、文武両道の人であり、かつ政治的な力量手腕もあり、父清盛さえも一目、置くような 平家一門にとって要ともなる重要な存在であった。 しかし平家一門にとって大変不幸な事に、重盛は父清盛よりも早く死んでしまった。

重盛が健在なれば当時の人々の心は平家離れする事もなく、源氏の台頭もなかったかも知れない、ならば 当然の事であるが平家の滅亡もなかったかも知れない。 時の政権さえも左右する程の大きな役割と人望を持った人だったのである。2年後には父清盛がこの世を去り、さらに4年後には壇ノ浦にて平家が滅亡することになった。

この世に起こる出来事に偶然はないと聞くが、天は平家の世を、お望みにならなかったのであろうか、とにもかくにも重盛は早世し平家は檀之浦で滅んでしまった。 重盛の長子は維盛(これもり)だったが、維盛も叉檀之浦で死んでしまった。維盛には六代と言う12歳になる一子がおり、京都の遍照寺の近くの菖蒲谷に母と一緒に隠れ住んで居るところを、源頼朝の命を受けた北条時政に捕えられてしまった。

  時代はさかのぼるが、平治の乱に敗れた源義朝の子頼朝は平清盛に助命され、伊豆の蛭が小島に流された。因果は廻るのであろうか、死を許さない北条時政であったが、六代の乳母の懇請を受け入れた頼朝の命令により六代の一命は助けられたのである。

六代は恭順の意を表するために髪を剃り僧となり名前を 妙覚とし、高野山に篭り、後高清と名乗った。妙覚には次郎と言う一子があった。時の執権北条時政は、自らが平氏だった縁もあっての事だったのだろうか、この子を清重と名乗らせ、建仁三年(1203)7月3日大隅の国、称寝(ねじめ)南俣院の地頭となし、薩摩、大隅、日向の大守島津忠久にその旨を通告した。

  清重とは曾祖父清盛、祖父重盛の名を一字ずつとったものであろう。これが小松家の始祖であり、小松家はまさに平清盛、重盛の血を引く平家の嫡流である事を我々は知らなければならない。小松家の菩提寺である、園林寺跡の墓地に行くと平姓を刻んだ墓石も見つかり、感動を覚えた。

 第17代重張の時、豊臣秀吉の命により、称寝氏は移封され吉利の領主となった。文禄4年(1595)重張は称寝院を去り、多くの一族郎党と共に吉利の地に移った。元祖清重が称寝に封ぜられてから実に17代、390余年を経ている。転封に従い、涙ながらに称寝の地を去らねばならなかった重張主従の心中を思う時、胸の痛みを感ずる。

 本来、平(たいら)姓であったが称寝院を領したので称寝姓を称したのであるが、第24代清鹿は姓を小松に改めた。祖先が小松内大臣平重盛であり、その直系の子孫であると言う誇りさえ、あっての事でもあろうか。

53、東市来町 美山 日置市史跡めぐり歩こう会3

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東市来町 美山 日置市史跡めぐり歩こう会-5

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東市来町 美山 日置市史跡めぐり歩こう会-6

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東市来町 美山 日置市史跡めぐり歩こう会-7

平成19年2月11日東市来町美山で、「史跡めぐり歩こう会」が日置市主催にて開かれた、500名を越す参加者で盛会だった。

以上掲載して来たように、日置市の足元には素晴らしい歴史、文化、自然遺産がこんなにもたくさんあるのだから、この資料集を参考にしながら自分達の目で、実際に見て欲しい。

そしてこの地に御縁のあった事に対して、感謝と誇りを持つとともに、アメリカやヨ-ロッパ諸国の侵略から祖国日本を守るために、維新回転の大事業に奔走した薩摩の大先達はじめ、己を捨て国家や民族のために生きた偉人に続く人物に成長して欲しいものである。

そして何よりも自然を友とし大自然(大宇宙の創造主-天)に愛される生き方の出来る人物になって欲しいのである。

52、鹿児島市 南州墓地 桂久武 久まさ父子の墓

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鹿児島市 南州墓地 桂久武 久まさ父子の墓-1
鹿児島市南州墓地正面右横にある。

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鹿児島市 南州墓地 桂久武の墓-2

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鹿児島市 南州墓地 桂久まさの墓-3

父桂久武の真後ろに据えられており、大きさは父の墓石の7分目ほどである。その姿格好も寸分違わない造りであり、製作者達の父子を思う気持ちが痛いように伝わり、訪れる人々の胸を打つ。

桂久まさ、は西南の役に父久武と共に従軍し17歳の若さで田原坂にて戦死した。「田原坂」なる有名な歌があるがその歌詞の一節に「雨は降る降る人馬は濡れる 馬上豊かな美少年」とあるが桂久まさこそが、そのモデルだと言われている。

50、日吉町 日置島津屋敷跡5

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日置島津屋敷跡-10 右手には石垣がわずかに残されている

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日置島津屋敷跡-11 北門跡 現在の日吉小学校裏門(階段側より見る)

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日置島津屋敷跡-12 北門 排水溝跡

50、日吉町 日置島津屋敷跡2

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日置島津屋敷跡-3 南門跡 現在の日置小学校正門(階段側より見る)

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日置島津屋敷跡-4 南門跡 現在の日置小学校正門(階段側より見る)

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日置島津屋敷跡-5 南門跡 現在の日置小学校正門(階段側より見る)

50、日吉町 日置島津屋敷跡1

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日吉町 日置島津屋敷跡-1 現在では日置小学校となっている(犬追物が行われていた広場が現在の運動場となっている)日吉の子供たちは礼儀正しく人懐っこい、近づいて挨拶してくれる。

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日置島津屋敷跡-2 南門跡 現在の日置小学校正門(校庭側より見る)

49、日吉町 日新の菜の花

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日吉町日新の菜の花-1 (遠景は松尾城跡)平成19年3月14日撮影

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日吉町日新の菜の花-2 平成19年3月14日撮影

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日吉町日新の菜の花-3 平成19年3月14日撮影

48、日吉町 桂山寺跡となりにある 赤山靱負(あかやまゆきえ)の墓2

赤山靱負(あかやまゆきえ)はお由羅騒動時の正義党(島津斉彬擁立派)の中心人物の一人であり、志半ばにして藩命により切腹を命じられ果てた人である。

西郷南州の父は、赤山家の用人を務めていたので切腹した時、赤山靱負が着用していた狩衣(かりぎぬ 袖なしの着物)を「西郷吉之助に与えよ」との赤山靱負の遺言により拝領し自宅に持ち帰った。

 最後に当たり逍遥として死んでいった赤山靱負の様子と遺言を父から聞かされた吉之助が、頂戴した血染めの狩衣を押し抱き、大久保一蔵と一緒に号泣しながら赤山靱負の志を引き継ぐ決意を固めた逸話は余りにも有名である。

 明治維新が薩摩から起こった事は誰でも知っているが、赤山靱負等の第一次藩政改革派(斉彬擁立派)人材達の尊い犠牲の上にその志を引き継ぐ人材が陸続したのであって、彼等無くして明治維新は語れない、彼等こそ原点なのである。私たちは日吉町が史跡や歴史上の人材の宝庫である事をもう一回知ると共に自覚し、日吉町に関係する多くの人々に誇りを持って欲しいものである。

 話は前後するが赤山靱負は日置島津第12代当主久風公の次男である。本藩家老まで勤め西南の役では盟友西郷隆盛の為に、補給の総括責任と言う最難関の役目を引き受け、城山で果てた桂久武は赤山靱負の弟になる。

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桂林寺からの風景