付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 4 利他に生きた薩摩の先達津曲貞助、早子母子の話2

1. 明治12年姶良郡国分村で煙草の製造販売を営んでいた父・伝太郎、母・早子の長男として生まれる

2. 郷里の高等小学校を卒業後、鹿児島市に出て英仏義塾および三州義塾で英語・漢文・数学を学んだ

3. 帰郷し、たばこ合資会社を設立、自ら専務理事となり遠く沖縄の八重山群島あたりまで葉タバコの買い入れに出かけたりする忙しい日々にも拘らず時事、社会、教育問題等についてたびたび新聞に所見を発表したという。さらに夜は政治学・経済学・文学・地理学等を独習し、明け方床につくという生活を続けたらしい(19歳)

4. 会社を鹿児島市に移し、6年後には大蔵省指定のたばこ元売りさばき人となり、同市一円と鹿児島郡一帯の、たばこ販売権を一手に収めた(23歳)

5. この間も夜は学習に励み、かねては実業に従事しながら試験の時だけ大学に出かけて受験し、東京の日本大学法律学科と京都にある立命館大学経済学科を同時に卒業する離れ業をやってのけた(30才)

6. 鹿児島市議会議員に最年少で最高得票して初当選、鹿児島独立新聞を独力で発行、県政や市政、教育問題などについて論陣を張った(33才)

7. 鹿児島市消防組頭(38才)

8. 鹿児島県議会議員に最高点で当選(40才)

9. 大正11年当時銀行というものは、中小商工者や一般庶民には程遠い存在だったらしく、民衆は営業資金や不時の支出に困った時には、高利貸しや質屋の門をたたくしか方法は無く、庶民の窮状救済のため鹿児島信用組合(現在の鹿児島信用金庫)を設立した。資料によると、当時は鹿児島市内に117の質屋があり、一世帯当り年間平均15回もの利用がなされていたという。一口当たりの借り入れ金額は低く、生活費の補助、商品の仕入れ、病気療養などに使われていたと見られる(44才)

10. 教育報国に一身をささげたいとし、大正12年、県立第一高等女学校校長屋代熊太郎を校長に迎え鹿児島高等女学校を設立し開校する。国家社会に有為な人材の養成を目指した(45才)

11. 昭和4年県立第一中学校教頭であった松村吉之助を初代校長に迎え鹿児島中学校等を開設し、共に学問をあいし、国を思い、人間つくりを志す人材の養成を目指ざした。同時に鹿児島高等家政女学校、鹿児島幼稚園も創設(51才)
ここで特筆すべきは設立、開校に当たりそれぞれ県立第一高等女学校校長、県立第一中学校教頭を迎えていると言うことであり、学校起こしにかけた彼の情熱と力を認めたいものである。

12. 昭和7年鹿児島高等商業学校開校、通称、高商・私立の高商としては九州で一番早く開かれた、現在の鹿児島国際大学の母体。

13. 昭和15年九州配電取締役選任(62才)

14. 昭和23年学制改変にあたり鹿児島高等女学校・鹿児島中学校・鹿児島高等家政女学校を統合、「津曲学園高等学校」として発足。のち「鹿児島高等学校」と改称、現在に至る

15. 昭和24年永眠(71才)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック