付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 4 利他に生きた薩摩の先達津曲貞助、早子母子の話1

前述のように私は鹿児島中央高等学校の第2期生である。どんな理由かわからないが学校の敷地内にある東郷平八郎元帥の記念碑の斜め向かい側にある、少し古びてはいたが威厳のある屋敷の門に「津曲」と言う表札があったのを、卒業して何十年もたっても記憶に焼きつき目に残って離れなかった。

私は長男上原太陽のご縁で津曲学園、鹿児島高等学校のPTA会長を平成8年5月から10年5月までの2年間務めさせて頂いたが、当時の鹿児島高校校長は諏訪園勵先生であった。先生が長年鹿児島県教育委員会に席を置いておられた関係上、私は有り難いことに旧知の間柄でもあり親しくお話をさせて頂く機会が多かった。その会話の中の「上原さん、鹿児島高校の生徒はみんな優しいです、それは悲しみを知っているからです」から始まる鹿児島高校創立の逸話に、私は興味を持ち取材を始めたのである。

上村國博教頭先生から頂いた資料に目を通すうちに、この話は美談であり、なんとか私に出来る機会があったら一人でも多くの方々に、特に鹿児島高校生徒は勿論郷土の青少年たちに伝えたいと思い続けていたところ、以心伝心とはこの事であろうか、友であり高城書房の経営者である寺尾政一郎さんから出版の声が掛かったので感謝しながら今、筆を執っている次第である。

鹿児島中央高校の前、住人は鶴丸高校でありその又前は鹿児島県立第一高等女学校だった。毎年春3月、第一高女正門横にある津曲家からは、入学試験の合格発表風景が否応なく目に入ってきた事だろう、発表日の朝合格して飛び跳ねながら喜ぶ子供たちにはそれなりに祝福を送ってあげれば良かったが、運悪く志を果たせなかった娘さんや、その親御さんたちが悲しみの涙を流しながら校門を後にし、帰って行く姿に胸を痛めるやさしい心の持ち主の早子、貞助母子であった。しかし、現実としては大正11年現在402名の志願者に対して166名しか合格出来ないという状況であった。

「悲嘆にくれる、あの娘さんたちをなんとかしたい」と言う、母、早子の願いは鹿児島市議会議員を経て当時は鹿児島市教育委員にも任命されており、鹿児島県議会議員として活躍していた貞助も同じであったので、彼は関係各方面に働きかけたが官には期待出来ないと判断し自らの力でと思い、貞助は本来が実業家であったので、持てる資産の全てを投げ打ってでも未来のある子等のために、私立の高等女学校を新設しようと一大決心をしたのである。建設予定地としては早子の隠居所にと用意してあった原良の田んぼを埋め立てる事にした。そして大正12年4月、苦労の末ようやく開校にこぎつけた。これが「津曲学園鹿児島高等学校」創設の原点なのである。縁とは不思議なものであり現鹿児島高校校長、角園征治先生は第14代鹿児島中央高校校長であられた事も付記しておきたい。

己を捨てて「世の為.人の為」に生きた貞助を育てた母、早子も偉大であったが当の本人も偉かった、せっかくであるから貞助の生き様、経歴等を紹介しておきたい。今日、道徳心は薄れ人としての道を逸脱し、私利私欲、保身に生きる輩が跋扈している情けない国、祖国日本になってしまっているが利他に生きた津曲早子・貞助母子のお話が一服の清涼剤の役割を果たし、焼け跡の土筆が芽吹いてくるように薩摩の先達に続く郷土の青少年が陸続する事を請い願いつつ。