付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 5 日本初の第九交響曲

有難い事に大学時代を東京で過ごした関係で、私には日本全国に友達が存在してくれる。妻を亡くした直後、真っ先に旅した所は、四国の阿波徳島だった。四国は良い、大歩危小歩危に足を運べば平家の落人伝説の遺構がそのまま残っている。伝説の山、剣山も良い、意を決して頂上まで挑戦すると、さすがに高峰である、夏にも関わらず大変に寒かった感触が五年過ぎた今でも記憶に新しい。

 現在の徳島県鳴門市大麻町坂東は、かつてドイツ将兵の捕虜収容所があった所である。第一次世界大戦で捕虜となった独人達をここに迎えたのである、同じく四国の香川県松山市には、日露戦争に於けるロシア人捕虜収容所が存在した。異郷の地で無念の時を迎えざるを得なかった98名にのぼる人々の墓も祖国に向けて立てられ、大切にされている。戦時捕虜である、内科的病者は当然であるが外科的重症者も数多く存在しただろう、今日と異なり治療の処置も限られていたたであろう、四国の地は人情豊かで気候が日本中でもとっても恵まれている場所の一つであり、回復の為には体力の回復が大切である、夏は暑すぎず、冬は温暖な環境が病と傷口の回復の特効薬であった。大東亜戦争敗戦後における日本軍捕虜に対する大量虐待はソ連によるシベリヤ抑留を例とするまでも無いが抑留者数60数万人にものぼり10人に1人が死亡し、その数は6万数千人にものぼった。イギリス軍による東南アジアにおける日本軍捕虜に対する虐待も陰湿悲惨なものだった。 

日本の同盟国だったタイ国のクワイ河鉄橋のたもとに行くと昭和19年に大日本帝国陸軍により建立された「敵味方供養慰霊碑」が残っている。話を戻そう、日本国の捕虜に対する待遇は土地の知名士以上と形容しても良い位の、日本の国家として諸外国に対する誇りをかけた最恵国待遇を処したのであり、その土地の住民の皆さんもその考え方に呼応して接した。

坂東にある収容所のドイツ人捕虜諸氏たちは、そこでは新聞を発行したり又ボウリングをしたりしてサークル活動も楽しんだ、その一つに交響楽団も出来ていた。まさに日本初である、大正7年(1918年)6月1日には、80人の合唱団の賛助出演を得て、所内でヴェートーヴェンの「第九」を第四楽章まで全曲演奏したという記録が残されている。さらに土地の人に聞いた話であるが、今でもドイツのリューネブルク市と鳴門市は姉妹都市として交流があり、近くの吉野川市にも毎年ドイツの高校生が団体で交歓に来ると言う。

松山における待遇も坂東同様であったが、特筆すべきは、兵たちは収容施設から半径1キロ以内は行動自由、海水浴や芝居見物、道後温泉への入浴等が認められており、将校に至っては市内居住が許可され、遠く祖国ロシアより妻子を招聘した人々も16組に及んだと言う事である。ほかに千葉県習志野の広大な草原にも同様な収容所が設置されていたが、そこでも印刷所が出来絵葉書が刷られ、さらにビールの製造もあり彼らの楽しみとしていたのである。余談ではあるが、習志野捕虜収容所長は西郷寅太郎大佐であり、彼はかの南州、西郷隆盛先生の嫡男でもあったと言う事実も付記しておきたい。

それぞれ明治、大正、昭和と時代こそ違え日本と、ソ連ロシアを含む欧米諸国の敗者に対する扱いと思想を述べて見た。ちなみに戦後、捕虜達の送還が行われたが、坂東にあっては帰国を自らの意思で拒否した残留者が、159名にものぼった。日本を永住の地と選択してくれた人々は、武士の情けに感動した典型的な方々だったのだろうか。 

取材中に知った事であるが偶然にも、以上述べてきた様な内容が「ヴァルトの楽園」を題として本年6月、松平健主演により東映から日独両国に於いて公開されるとの事だった。