付録 「鹿児島の青少年に誇りと夢を」 - 2 日露戦争100年に想う1

 明治37年(1904年)、日本はロシアとの戦争に突入する。まだ若い日本にとっては、存続か滅亡かをかけた戦争だった。主たる戦場は満州平原(日本軍とロシア軍の主力の決戦場)であったが、旅順港は世界的規模を持つロシア軍極東艦隊の基地であり、多くの軍艦が停泊するとともにその町と港を守るため当時世界一の「旅順要塞」が築かれていた。

 25万人前後の日本陸軍が戦っていたが、それを維持する武器、弾薬、食料などの補給は日本海を往復する船舶であり、大陸及び旅順における日本の陸軍が生き残るためには日本海の制海権を得る必要があった。このため、日本海軍は連合艦隊(対極東旅順艦隊、東郷平八郎大将)と第二艦隊(対極東ウラジオストック艦隊、上村彦之丞大将)を編成した。ともに薩摩藩の出身者である。さらに、日本海軍はその十年前の日清戦争以降、ロシアに勝つことを目標にして整備されたが、その偉大な任務を遂行した海軍大臣は山本権兵衛であった。実質的な日本海軍のオーナーでもあったが、彼もまた薩摩藩加治屋町出身者である。

 旅順港は大型船舶航行可能な出入り口が九十数メートルと非常に狭いため、港外から攻め入るに難しく、かつ世界一の要塞砲群に海の方も守られて、旅順艦隊を全滅させることが難しかった。これを打開するには旅順港を全望できる、旅順要塞の一角203高地から大砲で攻める方法しかなかった。これが旅順要塞攻防戦である。攻城軍総司令官は乃木希典であったが、静子婦人は薩摩の人であり、その上にある満州軍総司令官、大山巌(西郷隆盛の従兄弟)もまた、同加治屋町出身である。

 ウラジオストックの艦隊と合流すべく旅順港を離れたロシア極東艦隊を打ち破った「黄海海戦」、およびバルチック艦隊を全滅させ世界の海戦史上に残る「日本海海戦」を勝利に導いた連合艦隊司令長官の東郷平八郎も、樺山資紀も前述のごとく薩摩藩加治屋町である。日露戦争における陸軍の大決戦、遼陽、沙河、黒溝台、奉天、会戦などを勝利させた満州軍総司令官・大山巌元帥、また下部組織の満州軍第1軍司令官・黒木為元大将、同第4軍司令官・野津道貫大将も薩摩である。

 今日のわれわれは「平和」で「豊か」な日本を謳歌しているが、日露戦争に敗れていたならば、日本はロシアの植民地かソビエト連邦に組み込まれていたかも知れず、当然のことながら今日の日本は存在し得なかったはずである。こうみると、日本軍を勝利に導き、ロシアの南下を防ぐことでわが国の独立を守ったのは薩摩の先達と言っても過言ではなかろう。であれば、今日の「日本の礎」を築いたのもわが薩摩の先達と言えるのではないか。